2021春。ウイーン移住への記録 第6回
2020.04.17
オーベルジュメソンの経営を、
まったくの素人から夫婦で始めて18年が経ちます。
そんな僕たち夫婦が1年後の2021年春、
ウイーンへ移住し、開業することが決まりました。
この連載は、移住までの顛末を記録していきます。
「今の暮らしを変えたい!」なんていう希望をお持ちの方々に、
なにかのお役に立てればとリアルタイムに書いていきます。
ちなみに移住までは、夫婦ともメソンで仕事をしております。
その後のオーベルジュメソンの経営は、わたしたちの長女が引き継ぎます。
(このブログはあくまで夫の観点から書いていきます。
妻の観点は直接お聞きください・笑)
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話を進行させる前に、
どうして「今」、「ウイーン」へ移住しようと考えたのか。
頭の中を整理しながら、説明してみます。
ここ数年、オーベルジュメソンはまだまだたくさんの「伸びしろ」があるのに、
僕たち夫婦が経営を続けていると、
これ以上伸びない、という印象を強く持っていました。
だから、早く後継者を見つけ引き継がないとと、
焦っていたといえます。
そんなときに、長女が「やってみる」と承継を決めます。
当面、後継の体制も含め、引き継ぐための準備に入っていますが、
50代後半の僕たち夫婦は、その後どう生きていくか、
決めなければなりません。
お店も自宅も、娘に譲って出ていこうというつもりなのです。
働かなくても食べていけるような蓄えがあるわけではないので、
収入源をどうするか、暮らしていく場所をどうするかを、
決める必要に迫られています。
今は滋賀県の山麓の、のどかな田舎に住んでいます。
「年を取ったら、都会に住むかなぁ」と、漠然とは思っていました。
国内外どこでもよかったのですが、
国内でいえば、東京、大阪、京都など、知っている都会は
どこも僕たちには候補になりません。
次の仕事のあてもいまのところメドがありません。
さて、どうしたものかという段階だったわけです。
そんな時期のヨーロッパ行きでした。
1度目のウイーン行きは、ブタペストまでは、飛行機で入りましたが、
ブタペスト→プラハ→ウイーンの国境をこえる移動は、列車でした。
2度目のウイーン行きは、ウイーンへと、その後のウイーン→パリは飛行機でしたが、
フランス内のパリ→ストラスブール→ディジョン→パリの都市間移動は、列車でした。
大陸にいれば、パニック障害で薬を飲まないと飛行機に乗れないという「苦行」がなくとも、
国境を軽々超えることができることを、初めて実感します。
車移動という手段もあるわけで、
ヨーロッパ・アジアは陸続き。アフリカ大陸までも、
飛行機に乗らなくても移動できることに、気づいたのです。
おおげさに言えば、日本という島国で生まれ育った発想は、
世界標準ではなかったのです。
長い時間、鎖につながれていた象は、鎖の縛りがなくなっても、
鎖につながれているかのような行動しかできないといわれます。
その象と自分が重なります。
この年齢になるまで、たくさんの車を乗り替えてきました。
そのほとんどは輸入車(新車価格の1/10程度になった、古い車ばかり)ですが、車好きというよりは、
いろんな国のいろんなメーカー、いろんな車種に乗ってみたいという、
好奇心がそうさせてきました。
車って、ある時代の、
その国のテクノロジーとデザインの先端を集約した製品です。
そうしたものを、できるだけたくさん、体験したいのです。
大陸に住めば、単に車だけではなく、国・都市・町・村、人、食、美など、
苦行を味わうことなく、さまざまな体験の幅がほぼ無限に広がりはじめます。
ウイーンに住みたいという前に、
まず大陸に住むことの無限な可能性にときめきだしたのです。